結論からいえば、SNSなどのグループにおけるルールとして、「ネタバレ禁止」はルールとしてはまったくふさわしいくない。
なぜなら、「ネタバレ禁止」というルールは、まったくもって不平等だからだ。
そもそも、なぜ「ネタバレ禁止」というルールが必要なのだろうか?
ネタバレされると、作品の楽しみが半減するから...ということだと思う。
だが、これは変だ。
なぜなら、ネタバレされる側=まだ見ていない人たちに対する気遣いしかない。
なぜ、ネタバレする側=すでに作品を見た人たちに対する気遣いを考えないのか?
これだけでもすでに不平等であることが分かる。
一方で、こういう視点で考えてみよう。
もし、ネタバレ禁止のグループがあったとする。
すると、次の2つの問題が生まれる。
ひとつが、「そもそもどこからをネタバレとするか?」である。
例えば、シリーズA、B、Cの3つの作品があったとする。
シリーズを見てるor見てないのパターンが8パターン存在することになる。
シリーズAは見てる、けどBとCは見てない、というふうに。
とすると、どこからがネタバレだと、誰がどうやって決めるのだろうか?
シリーズAだけでも、線引きできるところはいくらでも存在するはずだ。
エンディングだけ、フラグ的な真実、序盤のつかみだけ...などなど。
その線引きは、誰がどうやって決めるか?
管理人が決める?それは管理人の横暴である。
管理人の裁量(気分や状況)で、善し悪しを判断されるのはとても分かりづらいし、めんどうくさい。
なにを話してよくて、なにを話したらダメなのか、分かりにくいと思わないか?
もうひとつが、「ネタバレをする側=すでに作品を見た人たちの自由が担保されていないこと」である。
ネタバレされる側=まだ作品を見ていない人たちは、グループを見ようとも見なくても、自由に行動できる。
ネタバレする側=もう作品を見た人たちは、グループを見ようとも見なくても、ネタバレに関する会話はできないという不自由を強いられる。
これは極めて不平等だ。
一方で、ネタバレが自由なグループがあったとしよう。
ネタバレされる側は、
A. ネタバレされてもいいから、グループを閲覧する。
B. ネタバレが嫌なので、グループを閲覧しない。
という選択権がある。
ネタバレする側はどうだろうか。
A. ネタバレしてしまうのは気になるので、ネタバレ前提の会話はしない。
B. それでも作品を知っている同士の会話をしたいので、ネタバレ前提の会話をする。
という選択権がある。
とても平等じゃないか。
それぞれ自由な意志で選ぶことができる。
ここでもしかしたら、ネタバレありと、ネタバレなしの2つのグループを作ればいいのでは?という意見があるかもしれない。
でもこれはダメだ。
ひとつめの「どこからをネタバレとするか?」という問題を思い出してほしい。
さっきの仮定にしたがうと、最低8つのグループが生まれることになる。
そんないくつもつくったら、参加する人たちも混乱しないだろうか?
「あれ、ここはどのルールのグループなんだっけ?」
管理人も大変だ。
グループの数だけ、ルールを使い分けて管理しないといけない。
掛けてもいい。
確実にそのうちネタバレの線引きが曖昧に、そして適当になる。
なので、わたしが管理するグループでは「ネタバレ禁止」というルールは基本的につくらない。
ネタバレは自由。とても分かりやすい。
その代わり、投稿する人たちに対し、「気遣いを求める」とだけ言っている。
あやふやではあるが、投稿する側にも裁量の自由がある。
もちろん、見る側にも見るor見ないの自由がある。
それ以外にも、映画版についてだけ2ヶ月だけ...といった、時限付きでルールにすることもあった。
折衷案はいくらでも取れる。
万が一、目に入ったら?
ハッキリ言ってしまえば、そのレベルでネタバレを気にするなら、SNSは向いてないのでやめたほうがいい。
見たくないものを見たくないって済ませれるほど、生きるのは甘くない。
あとは、個人的な経験から言わせてもらうと、ネタバレ禁止をルールに求める人たちは、みんなとても自己中心的だった。
さっきの例えで言えば、シリーズAのネタバレ禁止を求める一方で、シリーズBのネタバレについてはまったく気にしない...という感じ。
そのせいで、わたしも何回ネタバレを食らったことか。
バカなのかな?
まぁわたしはネタバレを気にしないので、どうでもいいんだけど。
なんなら必要に応じて、自分でWikipediaに見に行ってしまうこともあるしね。
ほんとは見たくないものを見てしまうのは、日常だ。
そう考えると、ネタバレ禁止をルールとして求める人たちが、いかに自己中心的で、第三者視点に欠けてて、甘ったれであるか。
そんな人たちへの気遣いなど不要だ。
それよりも、「自由に、公平に、分かりやすい」ほうが、よっぽど気楽だ。